|
内野雅文写真展 「とどまらぬ長き旅の…」 |
企画プロデューサー 石井仁志 |
そこはね。あまり目立たない入り口だったよ。大きな石灯篭が突っ立っていた。案内してくれた写真家の友長勇介が、ぽそりと「このへんだったようです…」と関西弁の抑揚でつぶやいた。祇園さんと呼ばれた八坂神社の、そんな所で、大きな石灯篭のひとすみで、崩れ落ちる大柄なきみのすがたが眼前に浮かんだ。寒かっただろうな、複数の写真機をぶらさげていたというから、さぞかし重みもこたえたろう。真新しい作務衣、やれやれいつもとおんなじかい。何をはおっていたんだい。撮影であっつくなっていたんだろ。ゆっくりと石灯篭のかどにビールをそそいだ。同行のもうひとりの写真家、下平竜矢が静かにシャッターをおろす音が響いた。八坂さんにはお参りもせず3人で、歩いた。
2008年元日、きみは、大晦日からいつもの調子で路上撮影し、前年の撮影に不満が残っていた八坂さんをまとにしていた。ちょうど一年間位か、きみが上洛して写し込んだ京都は。旅の達人とはいえ、何もそう急いであっちへいかんでよかろうに。ちょうど年の替わるころ、救急搬送され、明けやらぬ4時8分に逝ってしまった。心筋梗塞で…。34歳。…会うとね。始めから終りまで写真の話。正気のときも酔っぱらった時も、時間があろうがなかろうが、眠かろうが醒めていようが写真の話。浮いた話も下世話な話もなし、でも、楽しかったよ。きみはいつでも真摯だった。だからかな、よけいに驚いたのは、東京、大阪の各ギャラリーでの回顧展や、お別れ会の席上で、なんという交際範囲だろうとね。集ったひと、ひと、ひと。写真家仲間の話はついぞしなかったしね。びっくりしたよ。まさに老若男女、愛されてたねえ。
きみとはたしか、二度かな(一度は偶然街なかで会ったんだ)。撮影をともにした。ほんの短い時間だったけれど、たぶん、素人の背伸び写真と心ゆるして同行させてくれたのだろう。だけど、いつものきみの目つきとはちょっと違ってたね。狂喜と狂気が浮かぶんだ。いつのまにか、写すのを忘れてきみを見ていた。追いかけるのが大変だった。ゆったりおっとりのイメージが消え去り、都会の狩人が獲物をおっていた。あまりの迫力に、きみを写す事すらできなかった。帯同の最後に本日の成果を見せあいながら談笑。きみは、囁くように、しかし真顔で「石井さん、ずっと写真撮ったほうがいいですよ。」うれしかったね。ほめられたようで…。
「車窓から」「アイドル」「ケータイと鏡」「野ざらし紀行」「空と海への巡礼」「うりずん--沖縄先島」「ある町の記憶」「東京ファイル」過去に向けてたどる順番にならべるとしたらこんな感じかね。同時に進行していたシリーズも当然あるし、題名だってたとえば「空と海への巡礼」は「遍土 伊予路(阿波路)」といった変名がつけられている場合があったよ。個展の折にはケータイと鏡は切りはなされて「カガミノナカ」って題だったかな?なにしろきみが旅立ってから、何度も何度も見返して、外のビニール表紙以外がすりへって少し小さくなった写真集『ケータイと鏡』(2004/11)。ちっちゃな2Lサイズの横開きの『内野雅文 Photo Works 1996-2006』(2006/8)。きみはこれを図録と呼んだんだ。これは友長勇介が大阪で営んだギャラリー176で連続して開催された、きみの6つの個展にちなんで作りあげた作品集。発行in field(内野の直訳) 粋だねえ。
ことしはね、新潟出身の牛腸茂雄の没後30年。東京ではMEMで連続写真展をやっている。「こども」と題された第二部の白黒写真展を見ながら、最後に会ったあの日の会話を思い出した。「KYOTO」の写真を目前にありったけたくさん並べて、その写し撮られたこども達のいきいきとした動きや表情に感心していると、きみは牛腸さんと比べだした。うなっていたのが気になったんだろう。以前、牛腸のこどもの写真を見て凍りついた話をした。きみは黙って聞いていた。この写真のほうが好きだねというと、ひとこと、並べて見たいといった。大辻清司つながりだ。牛腸をみいだし、写真への道を開いた大辻、きみは1999年に会って傾倒し2001年の没後、かれの暗室の解体の折には、塩ビのシンクをゆずり受け、そのシンクで最後の白黒作品群「KYOTO」を現像、プリントしていたんだから。
近頃では、車窓から、ケータイ、アイドル、鏡、といったカラー作品の動機となった現象も変化してきている。最近の電車内では、化粧室のような光景はあまり見られなくなった(カガミノナカ)。携帯電話はスマホにものの見事にとって代られ、つまり使われ方が違っている。当時は誰も作品化しなかったケータイは今や撮ろうとしても作品化できまい。携帯依存症としてはあまり大きな反響はなかったが、便利になって?スマホ依存症は確実に増加し社会問題化する。また握りつぶされるならば、人間は、ヒトはまさに機械の奴隷化状況に追い込まれる。たちの悪い中毒だ。きみが生み出したこれらのスナップ作品は時代の流行、文化を写し撮ったのみならず、見えざる時代を予見した作品としてもひとり歩きをはじめた。残されたきみの作品群は、すぐれた視座の存在を語りだす。
また東京ファイルから始まって、うりずん--沖縄先島、空と海への巡礼、野ざらし紀行、kyotoと写し撮られた一連の白黒作品の視座は、シャープなカラー作品とは一線を画している。むしろきみの、原初的な体験や感性に裏打ちされた温かみのある、まさに諧謔と哀感のただよう世界が表現された作品群だ。こども達の自然な躍動、その表情、なぜか列を成すもの、後ろ髪惹かれるような風景の中の哀愁。などなど、きみの視座は見逃さない。微笑みの湧き上がるような路上スナップ作品が多数生みだされた。きみの感性と写真一途の努力が、そのたぐい稀な視座を形成した。未完のまま夭逝したとひとは云うかもしれない。だがきみは、いまもとどまらぬ長き旅の途上にいると信じている。それはひとり歩きし始めた作品達が、その世界を見つめ続ける観衆に出会い、表現を重ねるからに他ならない。手伝おうではないか、夢の語らいの実現に向けて、内野雅文写真展「とどまらぬ長き旅の…」を皮切りに、きみはまた一段、成長するに違いない。北海道から沖縄先島まで、旅は辛抱強くつづけられた。「車窓から」に残された黒いシルエットの車内から外光とともに飛び込んで来るさまざまな風景は、内野雅文の白黒作品、カラー作品を融解し、昇華させ、新たな世界を現出させる道しるべなのかもしれない。
石井仁志(いしい ひとし)
1955年生まれ。専門は近現代文化史研究と評論(写真・映像・音楽)と中島健蔵研究。「生誕百年記念中島健蔵展」(東京都写真美術館 2004年4月)プロデューサーディレクター、『占領期雑誌資料大系大衆文化編』全5巻(岩波書店 2009)編集委員・編集執筆者。編著に『懐かしさは未来とともにやってくる』(学分社 2013)。2008年より毎年写真家細江英公の小写真展をプロデュース。 |