ガイド地図利用案内 ギャラリー催し


見えない顔
大倉宏(美術評論家/砂丘館館長)
〈KYOTO〉

2007年 © Shigeo UCHINO


 はじめて見せられた内野雅文の写真で、印象的だったのは、献燈と書かれた提灯に、立つ人の顔が隠れたスナップだった。そこから見て行くと、顔のない人の写真がところどころに目についた。顔は傘の中だったり、幕の向こうだったりするのだが、顔のないその体が、忘れがたかった。
 生前の内野の写真が注目されるきっかけとなった「ケータイと鏡」シリーズでも、自分を映す鏡の背板に、女たちの顔が隠されている。他方ケータイをのぞく人々の顔は、見えているけど、同時に見えていない。顔が見えるとは、その顔を見る私が、向こうの目にも見えていることだとすれば、ケータイを持つ人の目に、私を含む周囲は消えているからだ。
 写真とコンピュータを組み込んだ電話〈ケータイ〉の登場は、個人の世界が安易に増殖し、広がり、文字通り「全世界」のように見え出す時代の始まりだった。そんな果てしない個の世界に住み始めた、ばらばらな人の集合である都市の光景が、このシリーズには映し出される。るい・ヴィトンやミッキーマウスを纏う人々を撮ったシリーズ「アイドル」とともに、それらには同時代への内野雅文の批評的視線が読みとれる。しかしそれは、彼の写真のもうひとつの半身であった「旅」のシリーズ、あるいは純粋なストリートスナップである東京や京都を撮った写真と、どのような関係にあったのだろうか。
 「ケータイ」シリーズは、個の世界に自閉する人々を、その「外」から、「外」とともに、収めている。携帯の画像に、会話に、メールの文字に吸い込まれる顔の側からの「外」に、内野雅文は確かに注意を注いでいたように思える。批評的に見つめた人々のありようが、同時に、自分だけのカットを狩るべく都市を渉猟する、写真家のそれと重なる部分があることに、気付いていたのだ。
 写真家が自分だけの個性的/個人的なカットを追求し、そこに自閉しようとすればするほど、見えなくなっていく影の、闇の部分。そこに内野雅文の写真の、重要と言っていい呼吸孔があったと感じさせるのが「車窓から」というもうひとつのシリーズだろう。車窓の枠内に映し出される桜や雲海のような雪や海や夏の野の鮮やかさは、ケータイやパソコンの画面の魔と重なる。その魔は子供の頃から「何時間電車に乗っても飽きなかった」という内野を絡みとり、封じ込め、彼を写真に向かわせたであろう最初の網(ネット)だったのかも知れない。このシリーズが、けれどきわめて印象的なのが、車窓の中ではなく、その外――闇として現れ、捉えられた車窓の枠外としての「車内」であり、車窓を横切り、遮る人々の影であることに注意しなくてはならない。
 車窓は、車窓に見入る私を、同乗した人々とともに運んで行く暗箱としての形状をもはや持たないケータイのカメラは、車体の消えた車窓かも知れない。それゆえそれは「全世界」の相貌を帯び、人を個人的情報、関係の網に解き放つごとく見せかけつつ、封じ込め、そのことで奇妙な画一性に人々を無意識裡に従属させもする。非日常的なものだった写真が、すべての人のものに、日常のありふれた道具に、なっていこうとしていた時代に、すべての顔にかぶされていったネットを、写真は、どのようにはがし、その向こうに、なお届き続けることができるのか。
 明るい自然の光を、生き生きとした人々を映しだす内野の旅写真が、ただ明るく、生き生きとした写真には見えない不思議に打たれるのだが、それはそこに答えのない、息苦しい、その自問が、ぴったり、影となってはりついているせいであるかも知れない。


砂丘館(旧日本銀行新潟支店長役宅)
〒951-8104 新潟市中央区西大畑町5218-1
TEL & FAX 025-222-2676